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金沢“GK”克彦のこちらプロレス村役場ドットコム

1961年12月13日、北海道帯広市出身。青山学院大学卒業後、新大阪新聞社に入社。“I編集長”こと井上義啓氏のもとで『週刊ファイト』編集部でキャリアをスタート。その後、日本スポーツ出版社『週刊ゴング』編集部へ。99年から04年まで編集長を務める。05年に同社を退社。以後はフリーランスとして幅広く活躍中。テレビ朝日系『ワールドプロレスリング』やサムライTV等で解説を務めるほか、『kamipro』でも執筆。著書に『風になれ』(東邦出版)、『力説』(エンターブレイン)。通称GK(=ゴング金沢)。

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8月31日更新

小鉄さんの死で新日本の創設者がすべて消えた衝撃!
両国・三冠戦で鈴木みのるが見せたインパクトとは?

 28日早朝に、山本小鉄さんが亡くなった。享年68。「そりゃないよ、小鉄さん!」という思いだ。鬼軍曹・山本小鉄の伝説は業界の至るところに転がっている。永田が言っている通り、小鉄さんの前ではあの前田日明も藤原喜明も直立不動。長州力も思いきり気を使っている。ただし、私は鬼軍曹の時代を直接的には知らない。私がこの世界で仕事を始め、新日本道場へも取材に出向くようになったのは、86年の8月後半から。この時代、道場のコーチ役はすでにネコさんことブラック・キャットに替わっていた。

 だから私の知る山本小鉄は、話好きでフレンドリーな“仏の小鉄”バージョンのほうだった。むしろ、あの当時は星野勘太郎さんの怖いシーンを見ている。後楽園ホールで若手の船木優治(現・誠勝)が第1試合を終えた後、星野さんがシャワールームに船木を呼び入れた。「何だ、あの試合は!」の怒声と共に張り手を何発もかます音が聞こえてきた。「ハイ、ハイ」と答える船木の声も漏れてくる。「ウワー、やっぱり新日本って凄えなあ」と新米記者の私はビックリ仰天したものだ。

だから、小鉄さんのリアルに怒った顔を初めて見たのは昨年12月の『スーパーJカップ』。例の男色ディーノとのストロングスタイル抗争(?)である。初日のディーノの試合(vs邪道)を私の斜め前で見ていた小鉄さんの形相がみるみる変わっていく。そして試合終了と同時に、バックステージに戻ると、「なんであんなやつを上げたんだ!」と怒鳴り散らした。今度はそれに食ってかかったのが、ディ―ノをブッキングしたライガ―。「こちらからお願いして上がってもらってるのに、そんな言い方はないでしょう!」。いやあ、新日本はいまでもスゴイ! そういうライガーも小鉄さんのおかげでメキシコから帰国し新日本入門を許された男。小鉄さんこそ最大の恩人なのだ。いまメキシコにいるライガーはこの訃報をどう受け止めているのだろうか?

そして、大会2日目が『Jスポーツ』の放送ということで事件が勃発。放送席にやってきたディーノは鍵野アナウンサーの唇を奪う。次の瞬間、解説席から立ち上がった小鉄さんは拳を固めてディーノに殴り掛かろうとした。巨体の平澤が本気で制止に入っていなければ、どうなっていたかわからない。大会終了後、トイレで小鉄さんとバッタリ会った。いつもの笑顔で「丸藤とデヴィットはいいねえ。デヴィットはよく練習するもん。丸藤も身体を見れば分かるよ」と上機嫌。「でも一番インパクトがあったのは小鉄さんのガチパンチですよ!」と私が返すと、小鉄さんは顔をしかめて無言になってしまった。私が調子に乗りすぎた。小鉄さんはまだ怒っていたのだ。

また、昔から小鉄さんによるレスラーの評価は、「1に練習、2に練習、3、4がなくて、5に人間性」という感じだった。

話は飛ぶが、先だってのG1の名古屋大会でのこと。当日はテレ朝『ワールドプロレスリング』の収録があった。新幹線が一緒だったので、山崎一夫さん、古澤琢アナウンサーと3人で相乗りして、名古屋駅から会場へ向かう。その途中、山崎さんと「プロレス用語の線引き」というようなテーマの話をした。つまり、「アングルなんて言葉はどう解釈されているのか?」とか「ガチンコとか一般的に浸透してしまっている用語はありなのか?」とか、そういう話である。もちろん、山崎さんも小鉄さんに厳しく育てられた世代である。そこで山崎さんから聞いたのは恐るべき(?)エピソード。以前、小鉄さんから「山崎、テレビの解説でヒールなんて言葉は使っちゃいけないだろ!」と指摘を受けたというのだ。

これには驚いた。ヒールという業界の隠語は、もうガチンコ同様に一般に普及している。世間一般においても、「悪役」は死語で「ヒール」が普通なのだ。そういえば、確かに長州なんかも会話の中でヒールという言葉を使うと、少し表情が変わることがある。藤波も同じで、そういう言葉を振られたとき答えに一拍おくような雰囲気を醸し出す。やはり、昭和世代のこだわりには未だ凄まじいものがある。

本当は小鉄さんの思い出をもっと書きたい部分もあるのだが、また別の機会としたい。 

とにかく、いま一番の衝撃は新日本プロレスの創設に関わった人が、これですべて新日本から消えてしまったということ。あの野毛の道場で鏡割りをした猪木、木戸、藤波、ユセフ・トルコ氏は新日本から去って、最後の小鉄さんが天に召された。だからここ数年、小鉄さんの存在が新日本プロレスそのものであり、新日本の象徴でもあったのだ。小鉄さんが亡くなって、その現実を強烈に叩きつけられた思いがする。ただし、小鉄さんは精神論だけではなく、目に見える形を残してくれた。それが、あのライオンマーク。誇りに満ちた「KING OF SPORTS」入りのライオンマークである。

 さて、小鉄さん死去の衝撃が駆けめぐる中、全日本プロレスが8・29両国大会を開催した。大苦戦が予想されたものの、蓋を開けてみれば8300人(主催者発表)と7割の入り。大健闘と言っていいだろう。いまの全日本プロレスは、明らかに過渡期を迎えている。武藤欠場、小島退団、新世代の台頭&世代闘争の狭間でもがき苦しんでいる感があった。

 しかし、苦しみの中で迎えた両国大会は、苦闘してきた分、新たな胎動と成果を示すような、発表会の場になったと思う。