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金沢“GK”克彦のこちらプロレス村役場ドットコム

1961年12月13日、北海道帯広市出身。青山学院大学卒業後、新大阪新聞社に入社。“I編集長”こと井上義啓氏のもとで『週刊ファイト』編集部でキャリアをスタート。その後、日本スポーツ出版社『週刊ゴング』編集部へ。99年から04年まで編集長を務める。05年に同社を退社。以後はフリーランスとして幅広く活躍中。テレビ朝日系『ワールドプロレスリング』やサムライTV等で解説を務めるほか、『kamipro』でも執筆。著書に『風になれ』(東邦出版)、『力説』(エンターブレイン)。通称GK(=ゴング金沢)。

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11月13日更新

12年半の空白を埋めるUの宿命か? 田村vs桜庭、4度目の一騎打ちを心して見届けよう!


撮影/菊池茂夫

当時、新日本番記者であった私はたまたま田村 vs 桜庭の3連戦をすべてナマで見届けている


5年越しのドリームカードである田村潔司 vs 桜庭和志の一戦が、大晦日の12.31『Dynamite!!』で実現する。5年越しというのは、初めて田村 vs 桜庭というカードが実現に向かって動き出しのが、03年の暮れであるから。つまり、世間が空前の格闘技ブームに沸き返っていた当時の話。03年の大晦日には『PRIDE男祭り』(さいたまスーパーアリーナ/フジテレビ系)、『K-1 Dynamite!!』(愛知・ナゴヤドーム/TBS系)、『イノキボンバイエ』(神戸ウイングスタジアム/日本テレビ系)の3大イベントが競合し、まさに格闘技バブルの絶頂期を示していた。

そこで、PRIDEサイドが発案した桜庭絡みのベストカードが田村戦。プロレスファン、U系ファン、格闘技ファンと、すべてのニーズに応える最上のマッチメイクであったことは間違いない。しかし、案の定、田村がそれを拒絶した。いまになってみれば、よく分かる。田村の性格上、お祭りの一環として、興行戦争の目玉企画として、また爆弾カードとして、桜庭と交えることは避けたかった。それが偽らざる本音だったろう。

その後も、PRIDEのリングで、二度実現に向け動いた田村vs桜庭は、結果的に田村が固辞する格好で二度とも流れている。しかしながら、ラストPRIDEとなった昨年の『PRIDE.34』(4.8さいたまスーパーアリーナ)で、『HERO'S』に移籍した桜庭が里帰りし、榊原社長を挟むかたちで田村と並び、将来的な対戦をファンに確約している。

過去、桜庭の「赤パン」発言などから、田村が態度を硬化させた時期もあったが、一つの時代の終焉に際し、互いの小さなわだかまりはどこかへ吹っ飛んでいたのだ。ところが、当のPRIDEが組織として完全に崩壊し、総合格闘技は再編期を迎えることとなり、田村 vs 桜庭の気運も一時的なものとして沈静化してしまった。

ところで、冒頭で5年越しのドリームカードと記しているが、周知の通り田村と桜庭はUWFインターナショナルの先輩後輩の間柄。Uインター時代、両者は3回シングマッチ(※Uインターにはダブルバウトもあった)で肌を合わせている。その期間というのは、ちょうど史上最大の団体対抗戦と言われた新日本 vs Uインターの潰し合いが、マット界の話題を独占していた時代。そこで、独り対抗戦に背を向けて、あくまで新日本と交わることを拒絶したのが田村だった。田村はあまりに真っ正直であり、頑固一徹な男だった。

道場最強と言われた石澤常光などは、対Uインター開戦を前に「やりたいのは田村潔司!」と言い続けた


新日本との対抗戦が勃発する直前に、当時Uインターのエース外国人であったゲーリー・オブライト(故人)を破り、試合後、「高田さん、僕と真剣勝負でやってください!」とマイクアピール。この一言が田村のすべての思いを象徴していた。紛れもなく、高田延彦に次ぐUインターの二番手にまで成り上がっていた田村。新日本の中でも、MMA志向が強く、当時は道場最強と言われた石澤常光(現ケンドー・カシン)などは、対Uインター開戦を前に、「やりたいのは田村潔司!」と言い続けた。私が「田村は出ないよ」と言っても、石澤は「田村戦しか眼中にないです。出てこい!と。マスコミで煽ってください」と執着心を捨て切れぬ様子だった。

その一方で、UWF時代の田村がレスリングの練習のため日体大レスリング部に出稽古に来た際に面識があり、また、自身のプロ入りに際して相談に乗ってくれたこともある田村に対し、永田裕志は何も言わなかった。「石澤君が言うのは構わないし、俺だって田村さんとはやってみたい。でも、あの人の気持ちは分かるから、俺から名前を出すのは失礼だと思うんですよ」。

結局、団体の中で浮き上がった存在となった田村が試合を組まれるのはUインター主催興行だけで、96年の3.1日本武道館、3.23宮城県スポーツセンター、5.27日本武道館と、すべて第1試合で桜庭と相見えている。戦績は田村の3連勝。何の因果か、当時から新日本番記者であった私は、たまたますべてが対抗戦絡みのビッグイベントであったことから、この3連戦をすべてナマで見届けている。

率直に言って、結果以上に内容は濃く、桜庭が田村に肉迫し、「あわや!」というシーンを何度も作っていた。特に、二度目の仙台の試合では、桜庭のチョークスリーパーの前に「周りが見えなくなってギブアップしようかと思った。カッコつけていられないぐらいに桜庭も強くなった」と田村が振り返ったほど。そして、余りにも有名なシーンへ。5.27武道館の第1試合、桜庭を腕十字で下した田村は、レガースを外して客席に投げ入れた。Uインター所属として最後の試合だった。

もちろん、桜庭は田村の心情を理解していただろうし、特別な思いも感じ取っていただろう。それでいながら、新日本との対抗戦のど真ん中に飛び込み、当時、石澤(2連戦)、金本、飯塚、大谷らとシングルでやり合っている。新日本スタイルにも抜群の順応性を見せた桜庭に対し、金本、石澤、大谷は一様に桜庭を絶賛していたものだ。

時を経て、紆余曲折を経て、12年半ぶりの一騎打ち。桜庭は「時間無制限で素手で殴りあうっていうのはどうです?」と提案し、田村は「ひとことで言えば『流れ』で決めました」とコメントしたという。あの新日本との対抗戦の時代から、すべてを受け入れることを生業としてきた男と、宿命と必然のみを受け入れ生きてきた男。桜庭はこの12年半の空白をぶん殴り合うことによって埋めてみたいと思っているのかもしれないし、田村の称する『流れ』とは、高田延彦の首を介錯したときと同様に、Uからスタートした者の「宿命」を指すものではないのだろうか。