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金沢“GK”克彦のこちらプロレス村役場ドットコム

1961年12月13日、北海道帯広市出身。青山学院大学卒業後、新大阪新聞社に入社。“I編集長”こと井上義啓氏のもとで『週刊ファイト』編集部でキャリアをスタート。その後、日本スポーツ出版社『週刊ゴング』編集部へ。99年から04年まで編集長を務める。05年に同社を退社。以後はフリーランスとして幅広く活躍中。テレビ朝日系『ワールドプロレスリング』やサムライTV等で解説を務めるほか、『kamipro』でも執筆。著書に『風になれ』(東邦出版)、『力説』(エンターブレイン)。通称GK(=ゴング金沢)。

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6月16日更新

三沢光晴とは、すべてを業(カルマ)として受け入れられる人物だった……合掌


愕然とするしかない。「嘘であってほしいよ!」は誰もが抱く思いだったろうし、私も同様だった


三沢光晴さんが13日、広島大会の試合中(GHCタッグ選手権)に倒れ、同日午後10時10分に逝去された。死因は「頸髄(けいずい)離断」と報道された。当日、私は都内のスタジオで「サムライTV」の実況音入れの仕事をしていた。終了したのは午後9時40分。携帯電話を確認してみたところ、友人から着信がありメールが届いていた。「三沢さんが心停止状態で病院に運ばれたみたいです」という内容だった。携帯サイトを確認してみたところ、確かにそういう情報が掲載されていた。

それから、午後10時過ぎにスタジオを出て電車に乗り帰路に就いた。自宅までは、電車を乗り継いで1時間強かかる。その間、関係者5〜6人から電話やメールが入る。「「三沢社長の容態は?」というものばかり。こちらも、何人かにメールを送って情報を求めた。午後11時15分、永田裕志から決定的なメール報告が入る。「現地で取材している記者から、三沢さんが亡くなられたという報告がありました。嘘であってほしいよ!」。

愕然とするしかない。「嘘であってほしいよ!」は誰もが抱く思いだったろうし、私も同様だった。その後、齋藤彰俊のことがとても心配になってきた。彰俊が新日本を離れてからは疎縁になってしまったが、いまでも年賀状のやりとりは続いているし、彼の性格はよく知っている。生真面目で腰が低く、心優しい男だ。

90年6月、福岡国際センターで馳浩がバックドロップの受け身に失敗して心肺停止状態に陥ったとき、対戦相手の後藤達俊の様子は見ていられなかった。その一部始終を私は観ていたし、昏倒する直前、シャワーを浴びて控室へ戻る馳と会話も交わしている。その後、馳が蘇生して一命を取り留めたのを知ったとき、後藤はようやく口を開いた。「馳にもしものことがあったら、俺はプロレスやめるつもりでした」。

2000年4月、気仙沼大会のYL杯公式戦で福田雅一が倒れたときには、リングサイドの本部席にいた。すべてを観ていたし、病院にも駆け付けた。対戦相手の柴田勝頼には、とても声を掛けられなかった。福田選手が死去した2日後の追悼試合に出場した柴田は試合に敗れ控室に戻ると、もう見えなくなったリングを指差して「俺の居場所はあそこしかねぇんだよ!」と叫んだ。20歳の若者の血を吐くような決意表明だった。

ノアは翌日からも続く現行のシリーズを予定通り行い、彰俊も試合に出場した。立派な事後処理だったと思う。リーダーの三沢社長がそういう人物だからこそ、この決定は当然の成り行きであったのだろう。

最近の三沢光晴(敬称略)を思う。最後に、生で彼の試合を観たのは、5.6日本武道館大会。「グローバル・タッグリーグ戦」の優勝決定戦(三沢&潮崎Vs健介&森嶋)だった。正直いって、「しんどそうだなあ」と思った。

バリバリの潮崎に、重戦車のような健介と森嶋。その3選手に挟まれて、三沢のコンディション不良は余計に際だって見えた。気力だけで闘っているのが、伝わってくるのだ。本来であれば、もう楽をしてもいい年齢であり、立場だったと思う。しかし、腎臓がんの摘出手術による小橋建太の戦線離脱、秋山準の持病(椎間板ヘルニア)の悪化と、本来、トップに立つべき選手が、肉体の故障に悩まされる中、結局この2年間、ノアは三沢に頼らざるを得なかった。

まして、今年3月末で日テレ中継が打ち切りとなったわけだから、放映料が入らない分の穴埋めも必要になってくる。社長業、試合と、心身ともに休息の暇などなかったろう。そんな状況下でも、ようやく潮崎豪が本物になってきた。まさに、世代交代に向け動き始めた矢先の事故である。「たら」「れば」は禁物とは分かっていても、もし1年早く世代交代の流れが生まれていれば……そういう思いが沸いてくる。

三沢は最後まで三沢光晴を全うしようとして、亡くなった。もう殉職という言葉しか出てこない


三沢光晴は、すべてを業(カルマ)として受け入れてきた男だった。タイガーマスク時代には生涯ジュニアヘビーでやっていこうと心に決めていた。周囲には、馬場さん、鶴田さん、天龍、ブッチャ―、ハンセン、ブロディ、ロード・ウォリアーズとスーパーヘビーの猛者がゴロゴロいた時代。ところが90年4〜5月のSWS設立、天龍ら主力の大量離脱に伴い、否応なくヘビー級トップ戦線への参入を義務付けられた。三沢はすべてを受け入れて、小柄な体で“怪物”ジャンボ鶴田に挑んでいく。

馬場さんが逝去した後は、「プロレスをやめようか」とまで思いつめた。それでも、周囲の声に促されて社長の重責を担った。ノアの旗揚げに関しても、本来は個人の意思で全日本を去るつもりだった。ところが、ほとんどの選手が三沢についていく意思を表明した。三沢は、ここでもすべてを受け入れた。彼の生き方は、リング上の試合スタイルとそのままリンクする。相手のすべてを受け切ったうえで、反撃に転じるのだ。

15年、20年とキャリアを積んできた選手の多くは、徐々にバンプをとらなくなってくる。若い選手のキツイ攻撃は受けようともしない。しかし、三沢は違った。永田が常々、「三沢さんは凄い!」と言うのはそこを指しているのだ。リングに格や先輩後輩を持ち込まないのが三沢というレスラー。三沢は最後まで三沢光晴を全うしようとして、亡くなった。もう殉職という言葉しか出てこない。

新日本カラ―が強いと思われがちの私だが、仕事だけではなく、プライベートでも三沢とは接点があった。私は20年ほど前まで世田谷区の上野毛に住んでいたから、当時、二子玉川園の近辺に住んでいた三沢とプライベートで何度か出くわしたことがある。一度は込み合った田園都市線の中でバッタリ。素顔のタイガーマスク、三沢は婚約者の真由美さんと一緒で『東スポ』を読んでいた。お互い、目が会って思わず笑いが漏れた。「タイガーマスクが電車で『東スポ』を読んでいるのはどうかと思うけど」と小声で話しかけると、真由美夫人を紹介してくれた上で、「タイガーマスクも電車に乗るし東スポも読むと。衝撃スクープでしょ!」と言って笑った。

2000年10月、週刊ゴングに掲載された全日本プロレスの広告の内容を巡って、心ならずもゴングーノア間にトラブルが生じた。その広告では、ノアのスタッフを名指しで糾弾していた。会社サイドは「全日本とノアのトラブルなのだから、広告に関してゴングが謝罪する必要はない」という決定。それを受けて、私はノアサイドと話し合いをもった。ラチがあかずに、結局、私が千葉公園体育館まで出向き、三沢社長と直接会談をもった。話が平行線をたどる中、「じゃあ、こうやって個人名をあげられた人間の気持ちはどうなのか! その立場になって考えてみなよ」と三沢社長が声を荒げた。この温厚な人物が怒鳴るところを初めて見た。最終的に、私は会社の意向に逆らって、独断で誌面に「お詫び文」を掲載した。

その後、後楽園ホールで顔を合わせたときに、三沢社長は自ら声を掛けてくれた。

「金沢さんが会社の意向に逆らって、クビも覚悟でアレを書いてくれたのは聞いてますから。ありがとう。もう気にしないで」

三沢光晴という人物がなぜここまで人望があるのか、それをあらためて知った。合掌。